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雑誌インタビュー・執筆情報
MD MedicalDoctor 2010 12月号

がんを考える ふたりの患者が教えてくれたこと

PROFILE

遠藤 剛(えんどう・ごう)
1983年帝京大学医学部卒業。
同大第二外科人局、玄々堂君津病院、帝京大学附属市原病院、社会保険中央総合病院大腸肛門病センター、竹田綜合病院を経て94年11月えんどうクリニック開設。
日本外科学会認定医・専門医、日本大腸肛門病学会専門医・指導医、日本消化管学会胃腸科詔定医、福島県立医科大学非常勤講師、福島県警察医なども務める。

1分1秒の延命ではなく…

 あれは20年前、入局して5、6年たったころであろうか、医学部時代の同級生の伯母が入院して、受けもち医になった。
検査が進むにつれて胃がんと診断がついた。抗がん剤の併用療法が教授や病棟医長から指示された。

 その当時、抗がん剤の治療はかなり大量投与しなければそれほど効果を期待できず、病巣を縮小したとしても食欲不振、貧血、下痢その他全身状態の悪化など副作用が問題であった。
 そこで、大学出たての新米医師の私と友人は、顔を合わせて相談したのである。

 「私個人の意見をいうと、抗がん剤の投与もよくいって数ヵ月、悪くすると数日で副作用のため、急に悪化する傾向にあるので、なんとかこのままで元気な間にできることをさせてあげて、一生を送らせてあげたらと思うのだが」。

 というと、友人は「実をいうと、伯母は現在独身で、長い間お付き合いをしてきた人がいる。
この伯母は、私を自分の子のようにかわいがってくれたので、できるだけ思いのままにさせてあげたい」という。
あとで聞いた話だが、入院したまま、時々その方と小旅行をしたり、ほほえましいような余生を約1ヵ月近く送ったそうだ。

 その間、回診では「抗がん剤の効果はどうかね」と教授に尋ねられ、投与しないことがわかると厳しい口調で怒られもしたが、友人との約束を守って「知らぬ顔の半兵衛」を決めこんでいた。
 その後、患者さんは外出もできなくなり、寝たきりの生活が続き、数力月後に死を迎えた。

 患者さんは死に際して「先生、ありがとう。
先生のおかげで入院中に思い残すことなく、最後の人生を楽しむことができた。
死を迎え、なに1つ思い残すことがないのを幸せに思います。
患者の望むのは、寝たきりの1分1秒の延命ではなく、短くも充実した生活を送ることだということを忘れないようにしてください。
そういう人間の心を理解できる医者になってください。
私は天国から先生を見守っておりますよ」という言葉とともに、息を引き取った。

 私は、これでよかったのか、抗がん剤を投与して細々とはしても、もう少し長生きさせたほうがよかったのだろうかと何度となく反問した。

 四十九日も過ぎたころ、友人と友人の父親(患者の弟)と3人で、私の慰労を兼ねて、伯母さんの追悼の宴が開かれた。
このとき、友人の父親から「どうにも型破りな姉であったが、人生の最期を思いのまま過ごすことができたことは、本当に感謝に耐えない」と、友人ともども私の杯に酒を涙ながらに満たすのであった。
そして余興に身振りも入れて、いつ終わるともしれず『戦友』を歌い続けるのだった。

直腸がん患者最期の言葉

 モンペをはいた年配の女性が「毎日便が十分に出ず、時折血便もあります。
夫は非常に気難しい人ですのであらかじめ先生にその旨を申し上げて往診をお願いに参りました」と、待合室で看護師に告げている。

 忘れ得ぬ人との出会いは開業して間もない10年前、こうして始まった。住所と姓名を聞き、午後一番の往診を約束した。
昼休みを利用してどんな患者さんだろうかといろいろ考え車で向かった。

 座敷に通されたが、その方は正座した大柄な白髪の目立つ人であった。
一応あいさつがあった後、その患者さんは唐突にこう切り出した。
「先生には突然で申し訳ないが、死亡診断書をお願いします」と。その方の真剣な熱いまなざしに驚いた。
すでに死を予感していたのであろう。

 診察の結果は直腸がんが予想されたが、その結果については本当のことを申し上げなかった。
ただ大きな病院に紹介申し上げるといって辞去したが、1週間後病院の医師から連絡が入った。
直腸がんで全身転移があり手術無効との返事であった。
数日で退院、自宅療養となったが、疼痛が激しく、鎮痛剤の持続投与が必要であった。
私は疼痛除去へのできる限りの治療を行った。

 「先生、モルヒネ以外栄養注射はいりません。アンプルは私に見せてから切ってください」といわれ、私はどきりとした。
「私のいまの疼痛を除く努力のみをお願いします。死後いくら弔われてもそれは無駄です」。
従容として死につく悟道の人としての心境を吐露されて、かえって治療上、やりにくいこともあった。
非常な清潔家で小用のたびに局所を清拭し、尿瓶の使用は許さなかった。

 奥さんと3人のご子息の不眠不休の看護が続いた。
お父さんの好きな物を食べさせようと深夜も厭わずそれを手に入れるために八方に飛び、しかし一口しか食べられない父親の衰弱に涙した。

 亡くなる前夜、私は隣室で「俺は明日死ぬ。お前を残して死ぬわけにはいかぬから一緒に死んでくれ」と奥さんにいわれるのを聞いた。
奥さんは「未成年の子ども3人を一人前にして私はあなたのもとに参ります。それまでは死ねません」と答えていた。
「そうか、お前には世話になった。
世界一の女房と思っている。お前の骨と一緒に埋まるまでお前の傍に俺の骨は置いておけ」と苦しい息遣いでの会話が交わされ、翌日の午後、その方はこの世を去った。

 人間はこうも立派に死ねるものだろうかと、私は感動した。
その方の遺言で、死後慰労の席に呼ばれたが、食物は喉を通らなかった。

 医療を通して私はいろいろな患者さんに人生のあり方について教わることが多く、いまでも心の支えとなる言葉をくり返して、噛みしめていることがある。
「死ぬ人はうそをいわぬ。聞く耳を持ってほしい」。その人の最期の言葉であった。