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雑誌インタビュー・執筆情報
いずみ 2002.11

隅越幸男先生から学んだ事巡り会えた良医

一、世の中で一番楽しく立派な事は一生涯を貫く仕事を持つという事です。
一、世の中で一番みじめな事は人間として教養のない事です。
一、世の中で一番さびしい事はする仕事のない事です一、世の中で一番みにくい事は他人の生活をうらやむ事です。
一、世の中で一番尊い事は人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。
一、世の中で一番美しい事はすべてのものに愛情をもつ事です。
一、世の中で一番悲しい事はうそをつく事です。

有名な福沢諭吉翁の「心訓」である

先生の顧問室に入ると立派な額に入った毛筆で書かれた「心訓」がある。
先生御自身の「心訓」であったと思われるこのすべてが、私が先生より教えていただいたすべてであると言っても過言ではない。
その様に大きく、やさしく慈悲深く、そしてとても聡明な先生であったと思う。

 私が先生と最初にお目にかかったのが、父に誘われ参加した昭和60年5月に開催された第1回東北地区肛門病懇談会であった。
父から「もし、お前が私と同じ肛門科医を志すのならば、日本一の隅越先生に教えてもらいなさい」と言われたが、その頃は医師となりまだ5年たらず、まさか先生に師事するとは思ってもいなかった。

隅越先生のお兄様は東北大学で父と同僚だったというのも何かの縁だったのかもしれない。
それから3年後の昭和63年4月の米沢で開催された先生の講演会において、父といっしょに先生に御挨拶をし、その後お手紙を書き、手術見学のお許しを得て、社会保険中央総合病院大腸肛門病センターの門をたたいたのが昭和63年7月1日、特に暑い夏であった。

 この時、会津から米沢までわざわざ父と私を御自身の運転する車でいっしょに送って下さったのが、後の私の外科の恩師となる元竹田綜合病院(副院長)、今は会津西病院にお勤めの紙田信彦先生であった。

これもまた何かの縁であり、父のおかげであったと思う。

そして、京浜東北線の蒲田駅の近くにある牧田総合病院の手術室で岩垂先生に「あっ、君か、隅越先生の紹介できた遠藤先生だね」と言われ、私の激動の社保中時代が幕を明けた。
その当時のメンバーは、隅越・岩垂両先生をはじめとする佐原・黄田・山本・東・吉永・小路・内山の各先生と私の総勢10名であった。

 診察の仕方から検査まですべて初めての事で、隅越先生や岩垂先生から教えていただいた事を一言漏らさず必死にメモをとり、振り返る余裕などまったく無く、死に者狂いの日々が続いた、正に砂漠に水を落とすが如く吸収した時期でもあった。

 1〜2ヵ月は後ろでの手術見学ばかりであったが、その後初めて前立ちをさせていただいた時の緊張感、そして何カ月がたったであろう、手術において、内肛門括約筋と外肛門括約筋の区別がついた時、そして挫骨直腸高痔屡の恥骨直腸筋の炎症のあの硬さがわかった時の感動を今でも忘れられない。
すべてが新鮮な発見と驚きの毎日であった。

別な意味での驚きもあった。

週に1回、六本木にある官島病院に手術に行く時には、何と先生御自身が我々研修医を車に乗せ、自ら運転をしながら色々お話をお聞かせいただいた。
そして病院での手術の前立ちをさせていただきご指導を仰ぎ、さらには、それが終わってから、食事をしながら、先生の今までの御苦労話やにがい経験などを拝聴し、今思えば正に夢の様な出来事であった。

 先生はとにかく「肛門上皮を取り過ぎてはいけない!」とよくおっしゃられていたのが印象深い。
「取り返しのつかない事はしてはいけない。
もしあとで残れば、2回に分けて手術をしてもかまわないといった考えで、最初は決して無理をしない様にしなさい」と教育された。
先生の手術は大変丁寧で、括約筋とヘモを明確に分け区別し、誰が見てもわかり易くそして早く確実な手技が印象に残る。
先生はまた、「痔の手術は大変むずかしいと思われがちだが、より多くの患者さんのために、やはり名人芸ではなく誰でもができる様な手術を模範として全国に普及させていかなければならない」と力説されていた。

さらには半閉鎖術式も大切な良い手技ではあるが、「初心者のうちはオープンでやった方が安全である」ということもおっしゃられていた。
また、若い女性のスキンタグ切除は、頼まれても安請け合いしない方が良いとも教えてくださった。
良性疾患は、患者さんの不快感、また日常生活において支障がない限り、むりに手術にもっていってはいけないと教わった。
また術後出血に関しては、稀ではあるが「交通事故に会った様なもの」と聞かされた。
さらには、今の保険制度にも触れ、手術において合併症をつくればつくる程、保険点数があがってゆく事をお嘆きになり、「これはおかしい事だね」と少し悩ましげにおっしゃられていた。

先生には医師となり私が初めて術者となったマイルズの手術(直腸切断術)の前立ちをしていただいたのも良い思い出である。

7月に来て11月までの5ヵ月間、ほとんどアパートにも帰らず先輩先生方の当直をいただき、その当直費で何とか食いつなぎ一心不乱に肛門病学を勉強した。
岩垂先生(現、社会保険中央総合病院副院長。
大腸肛門病センター長)にも本当によくかわいがってもらい、色々な事を教えていただいた。
先生には休日の昼メシまでごちそうになったりもして、おかげで「死に者狂い」「一心不乱」の割りには、大いに太った。
それまで無給で研修をしていたが、隅越先生、岩垂先生、佐原先生の御配慮により12月から晴れて、大腸肛門病センターの正研修医にしていただき初給料をいただき、私はすでに翌年の2月には会津に帰るとわかっていての人事であったので、格別なうれしさがあったのを今でも覚えている。

 年が改まり、昭和64年1月7日、昭和天皇が崩御され、医局の長椅子に座りテレビをじっとくいいるように見られていた先生のお姿も印象的であった。

 私は2月で退職したが、会津に帰る前日に夜も遅かったが、一人で医局で勉強していると隅越先生が入っていらっしゃり、何事かと思ったら、「よく頑張ったね」とおっしゃられ先生御自身の手術の生テープ5本と腕時計を記念にと私に下さった。
涙が出たのは言うまでもない。
一生の私の宝であり、時々そのテープを見ては、先生の事は勿論の事、社保中時代を思い出している。

 ここでの文章ではまだまだ語り尽くせない様なたくさんの事を学び、学問としての医学はもとより、医師とはどうあるべきかという人間性についてまでも、先生より学ばせていただいた様な気がする。

 社保中退職後、地元の竹田綜合病院外科に6年間勤務させていただき、社保中で学んだ基礎を紙田先生に実践の場で教えていただき、平成6年11月16日に外科・肛門科・胃腸科として開業した。
これも一重に岩垂先生、紙田先生、そして肛門病学の基礎を教えて下さった隅越先生のおかげと思い、感謝している。

 ここには書けなかったが大学関連病院も含め私は、今までに大変に良い先生と巡り合う事ができたと思っている。
隅越先生に会わせてくれた父も5年前に永眠した。享年76歳だった。
すばらしい外科医であり、やさしい父だった。

 隅越先生、どうぞいつまでもお元気で父の分まで長生きして下さい。
そして、我々にまだまだ色々な事を教えて下さい。
本当にありがとうございました。