コント作家を目指して
手元に新聞があったら、端から端までよく見ていただきたい。
読者からの投稿欄や社会面の片隅に「それ」は掲載されている。知らなくて当然と言っても過言ではない。
しかし、いったん目に留まると「それ」は病み付きになるから、「ああ、あの欄か」と思い付く人もいるのではないだろうか。
その欄の名称まで言える人は、さすが。さらに、毎日、その欄を読むのを楽しみにしている人は、かなりの通(?)である。
「それ」とは、わずか3センチ四方ほどのコント欄と呼ばれている囲みのユーモア記事である。
現在、日本の新聞では、朝日新聞が「かたえくぼ」、読売新聞が「USO放送」、毎日新聞が「ふんすい塔」という名のコント欄を設けている。
この欄は意外にも多くの新聞媒体にあり、スポーツ紙や地方紙、政党などの機関紙にまで常設されている。
コント欄は、「新聞のヘソ」と称されることもある。
ヘソとは体の真ん中に位置するもの。
「アンパンのヘソ」がある通り、それがあることで一様な印象に締まりを与えてくれる存在でもある。
しかし、ヘソというもの、その存在は認められていても仮に無かったところで支障を来すというわけでもなく、不可欠なもの、常に必要性のあるものではない、という一面もある。
とすれば、「新聞のヘソ」も一方で、別にあっても無くても…と考えられる。
しかし、コント欄は私にとって「生きている証」であり、1991年から各紙へ精力的に投稿を始めた。
日々、その時々の時事をテーマにアイデアを絞って、「コーモン様」「剛」「ごう」などのペンネームで挑んでいる。
その甲斐あってか掲載される機会も増え、さらに同好の仲間で結成している全国のコントクラブ大会で、様々な賞を頂戴したことは嬉しい限りである。
なぜ、コント欄が面白いのか。
それは、明るくとぼけているから、生意気をチクリと言えるから、流行語をつくれるかもしれないから、多士済々の同好の士がいるから、など多々ある。
しかし、結局は自己満足ができるからが、本音である。
読者からの投稿欄や社会面の片隅に「それ」は掲載されている。知らなくて当然と言っても過言ではない。
しかし、いったん目に留まると「それ」は病み付きになるから、「ああ、あの欄か」と思い付く人もいるのではないだろうか。
その欄の名称まで言える人は、さすが。さらに、毎日、その欄を読むのを楽しみにしている人は、かなりの通(?)である。
「それ」とは、わずか3センチ四方ほどのコント欄と呼ばれている囲みのユーモア記事である。
現在、日本の新聞では、朝日新聞が「かたえくぼ」、読売新聞が「USO放送」、毎日新聞が「ふんすい塔」という名のコント欄を設けている。
この欄は意外にも多くの新聞媒体にあり、スポーツ紙や地方紙、政党などの機関紙にまで常設されている。
コント欄は、「新聞のヘソ」と称されることもある。
ヘソとは体の真ん中に位置するもの。
「アンパンのヘソ」がある通り、それがあることで一様な印象に締まりを与えてくれる存在でもある。
しかし、ヘソというもの、その存在は認められていても仮に無かったところで支障を来すというわけでもなく、不可欠なもの、常に必要性のあるものではない、という一面もある。
とすれば、「新聞のヘソ」も一方で、別にあっても無くても…と考えられる。
しかし、コント欄は私にとって「生きている証」であり、1991年から各紙へ精力的に投稿を始めた。
日々、その時々の時事をテーマにアイデアを絞って、「コーモン様」「剛」「ごう」などのペンネームで挑んでいる。
その甲斐あってか掲載される機会も増え、さらに同好の仲間で結成している全国のコントクラブ大会で、様々な賞を頂戴したことは嬉しい限りである。
なぜ、コント欄が面白いのか。
それは、明るくとぼけているから、生意気をチクリと言えるから、流行語をつくれるかもしれないから、多士済々の同好の士がいるから、など多々ある。
しかし、結局は自己満足ができるからが、本音である。